創業者・吉住 茂の妻
吉住 茂子
創業者 吉住茂と昭和22年にお見合い結婚。吉住左官店の頃から茂のそばに寄り添い、起業を支えた。仕事一筋だった茂に代わり、子育てに奮闘。茂の隠居後は2 人で海外旅行に行くなど、仲睦まじい夫婦だった。
1937(昭和12)年3 月、大路尋常高等小学校を優秀な成績で卒業した創業者吉住茂は、氷上郡船城村の左官職人であり、茂の父の後妻の弟であった柳田謙治様のところへ弟子入りした。
1940(昭和15)年半ば、戦時体制となった国内で仕事が次第になくなり、親方と共に尼崎への出稼ぎ下宿生活がはじまった。冬場は特に仕事がなく、土木工事への参加や酒造出稼ぎに行くこともあったという。左官職人として一人前になれる自信もないままの尼崎出稼ぎ生活であったが、この頃の多忙な経験が創業後に自信を持って仕事に邁進していくきっかけとなり、勉強と仕事に対するまっすぐな熱意へとつながっていくのだった。
1942(昭和17)年春、5 年間の修行生活が明けて故郷へ帰ることとなった。建築資材が不足している時代であったが、手はじめに自宅の修復のための材料をなんとか調達。壁を塗り替え、煉瓦積みの浴室と炊事場の流し台をタイル張りに仕上げた。カマドも煉瓦づくりのタイル張りにして一新。この仕事がのちの吉住工務店の歩みのはじまりである。
夢であった故郷での開業をようやく果たした同じ年、茂は徴兵検査を受け、甲種合格。1943(昭和18)年1 月には大竹海兵団に入団する旨の辞令を受けた。2カ月間の基礎訓練教育を受けた後、一等水兵として横須賀航海学校へ入校。全国の海兵団から選抜された優秀者が入校していた航海学校では競争も激しく、日夜、勉強と訓練に明け暮れた。5 カ月後、信号術練習生を卒業し、歴戦殊勲第一と称された幸運の航空母艦「瑞鶴」に乗艦。信号兵として勤務することとなる。そして、1944(昭和19)年6 月20日マリアナ沖海戦において主力艦として活躍するも、緒戦以来無傷であった瑞鶴はついに被弾。息つく間もない死闘であったという。10月、レイテ沖海戦に囮部隊として参加。エンガノ岬沖海戦において、瑞鶴はついに沈没する。激しい戦火をくぐり抜けた茂の最後の務めは、大切な軍艦旗の降納だった。それを素早く腹に巻きつけて海中に身を投じた。数時間も海の中を漂流して救助を待ち、遠方にいた駆逐艦「若月」に向かって最後の力を振り絞って泳ぎ着き、茂は九死に一生を得る。乗員約1,700名のうち、生存者は970名。1 年3 カ月、「瑞鶴」で苦楽を共にした尊敬する先輩、無二の親友をこの海戦で亡くした。2 年8 カ月に及ぶ茂の海軍勤務は、1945(昭和20)年8 月15日の終戦まで続いた。奇跡的に命を保ち、生きて帰れた喜び。それこそが、どんな苦難が生じても、克服し乗り越えていこうという意欲を湧かせた。同時に、目の前で亡くなっていった戦友の分まで残りの人生を懸命に生きていく覚悟を決めた。「生かされた喜びは仕事でお返しする」。
常に今ある命を人のために、と考える真面目で自分に厳しい人間だった。
航空母艦 瑞鶴( 翔鶴型航空母艦 二番艦)
要目/基準排水量25,675t 全長257.5m 全幅26.0m。
太平洋戦争で、日本はアメリカに先駆け大規模な空母機動部隊を編成。戦艦の主砲に勝る攻撃力を持つ航空機動隊を、海のどこからでも放つことができる、日本の空母部隊は、世界に圧倒的な強さを見せつけた。なかでも主力艦として常に最前線を転戦し続けた瑞鶴は、日本海軍の最高殊勲艦に数えられる一隻である。
また、戦局が悪化するなかでも、大きな損害を受けることがなかった瑞鶴は、幸運な空母と呼ばれた。しかし、昭和19年10月25日、エンガノ岬沖海戦において、生還の見込みのない任務のなかで戦い続けたが、アメリカ軍の攻撃により沈没した。当時の乗組員と搭乗員のほとんどが、10代から20代の若者たちであった。奈良県橿原神宮近くの慰霊公苑内に「瑞鶴の碑」がある。
一命を捨てて祖国を守ろうとした乗組員たちは、今日も日本建国の聖地から祖国の姿を見守っている。
1947年(昭和22年)、親戚筋より縁談をいただき、茂と私は結婚式を挙げた。その頃の吉住左官店は大工棟梁から仕事を請け負う下請け左官として名が知られるようになり、次第に施工主からの直接注文も多くなっていた。当時はまだ持っている人が少なかった三輪車を購入。義父と私は重い煉瓦を積んだリヤカーを引いて狭い路地を何往復もして運び入れたものだ。当時はおくどさんや浴室づくりの仕事を請け負うことが多かった。赤土を練ってひび割れを防ぐ藁スサを混ぜ、壁をつくった。節を潰して引き裂く、藁スサづくりは主に私の仕事だった。それはもう大変な仕事で、私は多忙を極め、働き手を求めた。最初の弟子は私の弟 安達勲だった。その後、自宅からの通勤入門弟子も増え、住宅の新築工事が急増。基礎工事や壁塗り、炊事場改造工事など、近所の手伝い人夫を雇った。以降、住み込みの弟子を次々と受け入れ、我が家は大家族となった。手伝い人夫も含め、吉住左官店の従業員は10名に。1948(昭和23)年に長女が誕生。次いで1950(昭和25)年に長男 俊一が、1952(昭和27)年に次男が誕生。私は掃除、洗濯、父の農作業の手伝いなど、子育てをしながら本当によく働いた。毎朝早起きをして、従業員の分と子どもたちの分、2升7合の米を炊いた。当時、一番叱られていた弟子が、折に触れて未だに顔を出してくれるのは、厳しさの裏にあった茂の深い愛情を感じ取ってくれていたからであろう。
1960(昭和35)年代にブロック建築が盛んになると、茂は次第に左官業から建築工事全般へと業態を広げていく。運搬のための自動車調達、能率向上のための機械工具化を進め、早稲田大学建築科の通信教育過程を受講するなど、新しいことに積極的に取り組んだ。1962(昭和37)年に二級建築士資格を取得。その後も、一級建築士、一級土木施工管理技士、一級建築施工管理技士と資格を取得し、業績向上に寄与。特に一級建築士の資格を取るのは大変だったようで、1週間仕事を休んで閉じこもり、鉢巻を巻いて勉強をしていたのをよく覚えている。トイレにも本を持って入るほど勤勉だった。子育てはほとんど私任せであったが、人が嫌がるような仕事も率先して引き受け、しゃにむに働き続けた人生だった。
努力家で自分にも他人にも厳しい夫に付いていくのはとても大変なことだったが、左官屋からここまでの会社に育てた夫を誇りに思う。子育て中は喧嘩もよくした。けれど、晩年は大いに甘やかしてくれ、習い事など存分に楽しませてもらった。夫はゴルフが好きで、社交的でお酒もよく飲んだ。のちに町議会議員になって社長職を辞したが、会長職に就き、再び社に戻った際は現場に足繁く通い、まめに挨拶回りをした。幼少の頃に病気で実母を亡くし、戦争でも多くの友を亡くすというつらい経験をしたからか、弱音を吐かない、強い人だった。人に対しては親切で、我が家の生活が大変な時でも、他人のために何かしてあげるような人だった。
2013(平成25)年に亡くなってからは、毎朝、仏壇に手を合わせ「今日もよろしく。1 日元気で励みます」と報告するのが私の日課。こうして在りし日のことを思い返すと、できることならもう一度会いたい、と願わずにはいられない。