2代目社長
安達 勲
茂の妻 茂子の弟。昭和26年に一番弟子として、左官職人 茂の元で修行。
町会議員に当選した茂に変わり、昭和5 0 年〜 6 1 年まで2 代目社長を務め、その後65歳で定年退職を迎えるまで、吉住工務店に勤務した。
1963(昭和38)年4月、創業者である吉住茂は念願の株式会社吉住工務店を春日町中山で設立。出資者は従業員5名でのスタートであった。当初は、元請として補強ブロック造の建物を手掛ける体制を整えると共に、各種専門職との連携を深め、受注施工能力の向上に努めていった。第1期の完成工事高は750万円余りであったが、やがて補強ブロック造の請負を足掛かりに、鉄筋コンクリート( R C )造、そして公共事業へと受注の幅を広げ、利益を上げていくようになる。1965(昭和40)年4月には、業務拡張と交通事情の進展に伴い、春日町黒井に鉄筋2階建ての本社事務所を新築するまでになった。
創業5年目の1968(昭和43)年に施工したR C 造の「春日町福祉センター」が、初の公共工事となった。当時は今のようなミキサー車などない時代。貨車にセメントの袋を積んで、そこから人力で現場に運び入れ、手練りのミキサーを据えて砂利とセメント、水で職人が練り上げながらの打設。スコップで入れては練って、をひたすら繰り返した。毎日20人ほどの人夫が詰め、コンクリートを打つ際には30人強の人手を要した。2階の床のコンクリートを打つ際には、足場を組んで、2輪車を押して朝早くから運び入れた。それがその時の精一杯の技術だった。苦い失敗も糧に、先代は社内の技術力の向上に一層力を入れた。そんな努力の甲斐もあり、やがて吉住工務店はR C 造の建築で評価されるようになっていく。折しも時代は高度経済成長の流れにあり、公共投資は右肩上がりで進んでいった。時勢と合わせて公共事業の受注も増加し、完成工事高も順調に推移。会社の発展と共に、従業員も下請け職人も次第に増えた。こうして、年商1億円を目標に努力を続け、突き進んでいった。
この年、市島町に今も残る神池寺会館という公共の宿泊施設を施工。丹波比叡とも呼ばれる標高565mもの道なき道を、妙高山々頂まで人力で資材を運んだ。冬には雪が積もる現場で、本当に大変だったその様子をご覧になっていたご住職 荒樋大僧正が、記念としてご自身が揮毫された「真実一路」の書を贈ってくださった。真実一路とは、偽りのない真心をもって一筋に進むこと。創業者はこの言葉にいたく感銘を受け、以来、「真実一路」を吉住工務店の社是として大切に掲げていくこととなったのである。
1970年代半ば、拠点とする地元・丹波周辺では「公共工事の吉住工務店」というイメージが定着するほどに成長。1975(昭50)年4月、創業者 吉住茂が周囲からの強い推薦により春日町町議会議員に出馬。見事当選したことに伴い、社長職を辞任。2代目として私は12年間社長職に就いた。しかし、不況による大型工事の減少、同業他社との競争も激しく、なかなか業績の伸びない厳しい時代であった。先代は頭の切れる人で、一番弟子である私には特に厳しかった。自身も左官屋の丁稚として弟子入りし、数々の苦労を乗り越えてこられただけあって、とても芯の強い人だった。不況やバブルの影響で周りにたくさんあった建設会社は、どんどん潰れていった。そんな空気に流されることなく、先代の教えを守り、良いときも悪いときも、無理をして手を広げずに歩んできた結果、その堅実さが実を結び、今日まで生き残ってこられたのだ。
1972(昭和47)年、篠山市立西紀体育館の施工の際は、オイルショッックの影響で資材が手に入りにくい時代だった。予約注文を行っていたフローリング材をなかなか売ってもらえず、閉口した。「現金を持って車で取りに来い」と言われ、高いガソリンを買い、神戸まで引き取りに行ったことをよく覚えている。利益は全く出なかった。しかし、とても造りのしっかりとした立派な建物が完成。当時としてはかなり斬新なデザインでもあった。2 m 4 0㎝幅、1本1 5 t のコンクリートに、神戸の船会社につくってもらった鉄骨の梁(H鋼)を使って屋根を構成。当時はクレーン車などなく、施工には労を要した。2015(平成27)年に耐震補強工事を行った際には、再び吉住工務店が担当させていただくこととなった。しっかりとつくりこんだ建物は約40年の時を経てもなお美しく、目立ったコンクリートの剥がれなどもなかった。この仕事に携わるなかでこんなに誇らしいことはない。耐震補強工事でも、総重量130 tもの鉄骨を持ち上げる作業は大変で、バラバラに分けたものをウィンチで巻き上げて取り付けを行った。それだけで9カ月の工期のうちの約1カ月を要する大仕事だった。今の時代でもこれだけ時間のかかる大掛かりな作業であるのに、約40年前の新築時には、どれほど大変な作業だったか。当時の作業にあたってくださった職人たちに改めて、敬意を表したい。
1986(昭和61)年12月より、創業者 吉住茂の長男 俊一が社長に就任。先代は会長職に就いた。これを機に、手狭になった事務所は将来の発展を期して、現在の本社所在地である野村へ移転。鉄骨3階建ての本社事務所及び併設倉庫棟を建設した。この頃は自社で職人を抱えており、とても家庭的な雰囲気だった。今は下請け業者に任せている資材や道具なども自前で揃えていたので、大きな倉庫が必要だったのだ。しかし、自社ですべてを賄ったため、業務の合間を縫っての作業。思うように手が回らず、完成までにはかなりの時間を費やすこととなった。
3代目となる俊一に社長のバトンを渡した当時はなかなか入札が取れず、公共工事高は減少し、資金繰りが大変な時期だった。俊一社長が営業に回り、社員は現場に総出となって懸命に働いた。
俊一社長が創業者から教わったのは、掃除・片付け・整理整頓の徹底だった。物資の乏しい戦中・戦後を体験してきた職人上がりの先代はモノを大切にする性格で、職人の命とも言える道具を粗末に扱うことを決して許さなかった。現場や職場で、整理整頓ができていないと機嫌が悪く、きちんと片付けていれば機嫌が良かったことからも、その性格が分かる。そんな先代の姿勢から、「当たり前のことを毎日きっちり積み重ねていく」ことの大切さを学んだ。このことは俊一社長が代を受け継ぐにあたって一番大切にした教えである。そして、さらに会社全体としてその教えを徹底するには、職人や社員どうしの円滑なコミュニケーションが重要であるとの考えに行き着く。各々が当たり前のことを日々きちんとこなすには、仕事への士気を高めて意欲的に取り組むこと、社内に笑顔で話せる空気があることが必須だ。だからこそ、吉住工務店では気持ちよくコミュニケーションが取れる会社であることを大切にしている。