相談役
竹村 公作
創業者 茂から設計の腕を買われ、ア
ルバイトとして吉住工務店に勤務。
その後、昭和50年に正式入社。住宅
事業部の立ち上げに尽力。平成20年
に退社後も、相談役として陰ながら
吉住工務店を支える存在に。
地元地域では「公共工事の吉住工務店」として認知されており、住宅の施工は当時、年間2~3棟のみ。そのほとんどが従業員の親戚や知人など、関係者の住まいの建築だった。そんな折、ローコスト系木造在来工法のカトラン住宅を開発したカメヤグローバルより、フランチャイズ加盟店募集の案内について記したFA Xが流れてくる。低価格の高品質住宅を提供する仕組みに興味を持ち、説明会に参加。一般的には坪単価50~60万円ほど掛かる住宅が、わずか28~30万円で建てられるという。大工の手間賃も相場の半分以下という話に、当初は半信半疑だった。現場を実際に見学するなどして、その品質と仕組みを検討。俊一社長(当時。以下同)に報告したところ、営業方法や宣伝活動など、もう一度詳しい話を聞きに行ってみようということになった。結果、住宅の営業ノウハウを学ぶためにも、とりあえず加盟してみることとなった。それが1995(平成7)年のことである。
最初は「そんな報酬では無理だ」と断られ続け、なかなか請け負ってくれる大工が見つからずに困った。何軒かお試しでお願いしてみると、プレカット材で建てるため手間が掛からないことが大工さんにも好評で、「継続して仕事があるならば請け負ってもいいよ」と引き受けてもらえることになった。4月には、当時ニュータウンとして飛躍的な発展を見せていた三田市に、三田営業所を開設。翌1996(平成8)年には住宅事業部を分離。春日町にカトラン住宅のモデルハウス及び事務所を建設し、住宅事業部の拠点とした。そうして、年間30棟弱のカトラン住宅を施工。しかし、地元だけではマーケット自体が小さい上に低価格住宅のため、売上を伸ばしていくには限界が見えていた。そこで阪神間にも営業エリアを拡大していくことを考えた。とはいえ、阪神間では低価格住宅の競合他社も多く、営業ノウハウのない弊社が勝ち抜いていくには課題も多かった。
そんなとき、宍粟市(当時は宍粟郡)で地元の杉だけを使って建てたというモデルハウスの新聞広告を目にして見学へ。木造は節があると値打ちがないとされていた時代で、「こんなに節があるのに売れるのだろうか」というのが第一印象だった。しかし、見学に来ていた若いご夫婦が足を踏み入れた瞬間に感嘆の声を上げたのを聞いて、カルチャーショックを受けた。こんな住宅のつくり方があるのか、と目から鱗だった。すぐにこの杉の家をつくっている株式会社山弘の三渡代表に連絡を取り、建て方をぜひ教えてほしいとお願いに行った。そうして山弘との情報交換がスタート。その後、2003(平成15)年に「ひょうご 木の住まい協議会」立ち上げのお誘いをいただく。俊一社長も一緒に説明会に参加してもらい、その趣旨に賛同。加入することとなった。
「ひょうご 木の住まい協議会」に参加したことで、私は山の事情や木がひどいことになっている現状を知り、福島県で活動するNPO法人 環境共生住宅「地球の会」の会合にも参加するようになる。その会合で今度は、エアパス工法を推進する株式会社四季工房の野崎社長の講演を聞きに行くことになった。パッシブソーラーの説明を聞いて、すごくいいシステムだなと思った。当時、ソーラーサーキットやO M ソーラーはあったが、どれも機械を使うシステムばかり。私は果たしてそれでパッシブと言えるのか、と疑問に感じていたのだ。そんなときに知ったエアパス工法の家は、機械を使わずに自然な空気の流れをつくるという、とても興味深いシステムだった。その感動を俊一社長に伝えたところ、夫婦揃って福島県まで四季工房のモデルハウスを見に行ってくれた。そして、無垢の木を使ったデザインの良い住宅を気に入り、2006(平成18)年、吉住工務店もエアパスグループへ参加することになった。同じ年、春日町七日市の展示場及び事務所を改装し、木造+軽量鉄骨造の「こだま館」を開設した。
エアパスグループ参加の翌2007(平成19)年、こだま館隣に丹波展示場「丹波・四季の家」を施工。丹波はスギとヒノキの良い木が採れるから、地元の材と自然素材を使って吉住工務店らしいモデルハウスを建ててみようということに。同じ年、芦屋浜に兵庫県の分譲地が出るという話を聞きつけた。「ひょうご木の住まい協議会」から県産材を使った家しか建てられない区画をつくっていただき、兵庫県企業庁のコンペティションを通過。7区間を獲得した。そして、吉住工務店初となる阪神間での芦屋展示場「丹波・四季の家」が完成。ヨットハーバーも付いている分譲地は土地だけで4,000万円以上、建物を入れると7,000万円以上。果たして売れるのだろうかと心配だった。設計は四季工房の野崎社長に紹介していただき、コンペに出したが、そのプランでは売りにくいと判断。急遽プランを見直すことになった。納得のいくプランで初めてのモデルハウスを建てることができ、芦屋展示場は2009(平成21)年に販売契約成立。この芦屋での営業経験が、現在も続く阪神間エリアでの営業活動への第一歩となった。
どこかの研究会に参加した際、公共事業はこれから先どんどん減っていくだろうという話を聞いた。地方は特にダメージを受ける。では、その穴埋めをどうするのか。そこで、住宅事業の展開に行き着いた。私のこの提案を俊一社長が受け入れてくれ、さまざまな見学会に参加させてもらったことが、住宅事業部立ち上げへとつながった。丹波市内のゼネコンで住宅事業に乗り出したのは、吉住工務店が初めてであろう。ゼネコンは最初に提示された図面を基に積算をし、入札するという流れで仕事を取るが、住宅の企画販売では違う。売れる価格のなかで、いかに良いものをつくり、どのようにアピールしていくのかが問われる。当時の吉住工務店には、そのノウハウがなかった。カトランで住宅づくりと販売のノウハウを学び、四季工房でエアパス工法を学び、外部の研修会にも参加した。それまでは鉄骨や鉄筋の建物の施工がメインで、無垢材や自然素材を使った木造住宅の建築ノウハウも持っていなかったため、丹波で木材コーディネーターをしている有限会社ウッズの能口秀一氏にも教えを請い、木の特性、選び方なども学んだ。
住宅事業部はこれから先も経営を支えていく存在として、時代の流れに乗り遅れないよう情報・知識を追求し、さらなる展開を考えていく必要があるだろう。